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スペイン・ビザールの巨匠 ヴィセンテ・アランダ
Vicente Aranda

 ビセンテ・アランダ(本名:Vicente Aranda Ezquerra)は1926年、バルセロナのカタルーニャで産声をあげた。その後、実家で様々な仕事に従事したアランダは1949年にベネズエラに移住する。そして、1952年にアメリカの郵船会社に勤務し、最終的には技術管理のポストにまで登りつめた。
 ところが1956年、アランダは予ねてより志望していた映画製作の夢を成就すべく、突然スペインに帰郷する。そして、彼はスペイン映画の総本山であるマドリッドに向かい、国立映画研究所の門を叩いたが、入学資格に満たないとの理由でこれを拒否されてしまった。当時より多忙だったアランダは高等学校を卒業していなかったのである。
 仕方なくバルセロナに戻ったアランダは幾つもの挫折を経験しながらも独自の製作会社を立ち上げるべく孤高奮闘する。これは自分の思い描く作品を実現したかったからであった。当時バルセロナはマドリッドで製作される作品に対抗しようと意気込んでおり、前衛的な作品が求められていた。それは対等には扱えないが、フランスのヌーベルバーグやイタリアのネオ・リアリスモ等の映像運動に幾分似ていないこともない。アランダもこうした
バルセロナ派Escuela de Barcelonaと称されるグループの考え方に感化されており、マドリッドにはない独自性あふれる作品を生み出そうと画策していたのだ。

 こうしてロマン・グベルンRomán Gubernと共同でメガホンを執った処女作『輝ける未来(未)』Brillante Porvenirは1965年にリリースとなり、アランダと同じくバルセロナ派を標榜するゴンサロ・スアレスGonzalo Suárezの原作を映画化した『ファタ・モルガナ(未)』Fata Morgana(1965年)はアランダ初の単独監督作品となっただけでなく、初のバルセロナ派作品と冠することができる記念碑的作品として世に送り出された。特に『ファタ・モルガナ』は本著で取り上げるに相応しい怪作で、プロット自体はマッド・サイエンティストものであるが、イタリア製のジャッロ作品やフランスの鬼才アラン・ロブ=グリエAlain Robbe-Grilletの初期映画作品にも通じるアヴァンギャルドな演出に彩られている。
 70年代に入り、スペインでホラー、スリラー、そして幾分エロチックな作品が歓迎されるようになると、アランダもこうした動きに同調したような作品を手掛けるようになる。昼メロの体裁をとった猟奇スリラー
『偏愛交差点(未)』Las Crueles(1969年)、レ・ファニュの怪奇古典「吸血鬼カーミラ」を退廃的に描いた『鮮血の花嫁(未)』la Novia Ensangrentada(1972年)、タイトルそのままのシリアス・ドラマ『性転換(未)』Cambio de Sexo(1972年)、ポルノ女優と家庭を掛け持ちする主婦を描いたエロチック・コメディ『Clara es el precio』(1975年)等。これらの作品は一見商業ベースの体裁をとってはいるが、アランダらしいアヴァンギャルドな演出アプローチに加え、後の作品にも通じるモチーフである‘異常性愛’が見て取れる。何をもって異常とするかという議論はあるが、アランダは自分の作品において偏愛、愛憎を強調することで、我々にそれらの逆説的定義を提起しているのである。彼は決して奇をてらっているわけではない。

 さて、1976年に検閲が廃止となったスペインではアダルト作品が怒涛のごとく量産されたわけだが、アランダは自分のエロチック・コメディ作品の常連女優だったビクトリア・アブリルVictoria Abrilを80年代に入ってもそのまま起用し続けた。ちなみにアブリルは後にペドロ・アルドモバルにも魅入られて、数々の女優賞に輝いたのはご存知のとおりである。巷の喧騒をよそにアランダは『Asesinato en el Comité Central』(1982年)、『Tiempo de silencio』(1986年)等、アブリルをフィーチャーしたシリアスな作品を次々とリリースする。
 そして、80年代末期以降は史実のキャクターを取り上げて、彼らの悲しき奇行を世に問うた。脱獄囚エル・ルーテを描いた『El Lute: camina o revienta』(1987年)、『El Lute II: mañana seré libre』(1988年)はアランダ初の国内大ヒットとなり、続く『アマンテス 愛人』(1991年)に至っては全世界でヒットし、アランダはスペインを代表する巨匠監督へと一気に成り上がったのである。
 さて、本著の趣旨はアランダが巨匠となった以降の作品を扱うものではないので、彼のバイオは以上とさせていただく。昨今における『カルメン』(2003年)のヒットを持ち出すまでもなく、現在もなお彼がスペイン映画界の第一線で活躍しているのは周知のことであろう。それでも、私が本著でアランダにスポットを当てたのは、時にユーロ・トラッシュEuro Trashと形容されるスペインの70年代ファンタスティック映画に一定のクウォリティを与える貢献をしたからである。
 60年代後半から70年代中旬にかけてアランダはスリラーやコメディという商業ジャンルを利用して、検閲の許容限界スレスレのアプローチを巧みに実施していた。彼の取り上げるトランス・セクシャル、そして猟奇的な偏愛表現といったモチーフは当時スペイン映画においてはタブーであり、映画製作生命を絶たれるようなものであった。実際、スペイン最初期におけるトランス・セクシャル作品となったアランダの『性転換』をリリースした製作会社は検閲の餌食となり、営業停止処分を言い渡されている。

 70年代のスペインを席巻したスリラーやホラー等のジャンル作品にしばしば見受けられる幾分風刺的かつトランス・セクシャルなアプローチの素地はアランダによって慣らされたと言っても過言ではないのだ。
 つまるところアランダを筆頭として、エロイ・デ・ラ・イグレシア、ファン・アントニオ・バルデムといったジャンル監督ではないアート肌の巨匠達がその時代に流行したジャンル映画へ参画することにより、スペインのファンタスティック映画のクウォリティは保たれてきたのである。更に彼らは常に当時のスペイン映画を一歩先んじたアプローチを展開するだけでなく、後続者の辿るレールを敷いてきたのである。
 80年代以降、スペイン映画を語る際、しばしば取りあげられるようになった
ペドロ・アルドモバルやアレハンドロ・アメナバール等、個性派と称せられる監督達のアプローチの原型が60年代後半から70年代中旬にアランダが生み出したビザールな怪作に確認できる。アランダがホラーやSci−Fi等のファンタスティック映画専門監督ではないにしても、彼がそうしたジャンルに与えた影響は計り知れないのである。

2007.05.02 All rights reserved by Lina Romay???


 

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